一昨日、昨日の続き。本日は慶応大教授の小熊英二氏の「ガラパゴス的議論から脱却を」より
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例えば、外交は「冷静で賢明な外交官が交渉にあたる秘密外交」が理想とされることが多い。だが、民主化と情報化が進んだ現代では、内密に妥協すれば国民感情が収まらなくなる。
政府が強権で国民を抑えられた時代しか、秘密外交は機能しない。日韓政府が慰安婦問題の交渉で両国民を納得させる結果を出せなかったのは、旧来の外交スタイルが現代に合わなくなったのが一因だ。
大きな変化を念頭にこの問題をみると、20年前の新聞記事に誤報があったかどうかは、枝葉末節に過ぎない。とはいえ、今や日韓の外交摩擦の象徴的テーマとなったこの問題について、新聞が自らの報道を点検したのは意義がある。また90年代以降の日韓の交渉経緯を一望し、読者が流れをつかむことを助けてくれる。
国民はほとんどの情報を、マスコミを通じて得ています。ネットが発達した現在であってもマスコミの情報発信力は巨大です。したがって、マスコミ報道が誤報であったことが世論形成にとって枝葉末節であるはずがありません。
違和感が残ったのは特集の構成だ。1日目に自紙の報道を振り返り、2日目に慰安婦問題で揺れる日韓関係を書いている。しかし本来は、日韓でどう問題化しているかが中心であるはずで、報道の細部など読者の多くにとっては二の次だ。
「報道の細部」を振り返っているのではなく、現時点で何が事実と認定されているのか(何が事実でないのか)を検証しているのですから、二の次ではありません。あからさまな朝日新聞擁護です。
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この問題に関する日本の議論はおよそガラパゴス的だ。日本の保守派には、軍人や役人が直接に女性を連行したか否かだけを論点にし、それがなければ日本には責任がないと主張する人がいる。だが、そんな論点は、日本以外では問題にされていない。そうした主張が見苦しい言い訳にしか映らないことは、「原発事故は電力会社が起こしたことだから政府は責任がない」とか「(政治家の事件で)秘書がやったことだから私は知らない」といった弁明を考えればわかるだろう。
論理のすり替えです。原発事故は誰が原因で起きようと悪いことです。汚職も同じです。しかしこの問題は違います。合意のもとで働いてもらったのなら悪ではない、という主張です。いくつかの先進国では売春は合法化されていますが、仮に強制的に売春をさせているなら犯罪になるはずです。強制か強制でないかは大きな違いです。
小熊氏が「日本以外では問題にされていない」というのは具体的にどこの国で問題にされていないのか、そして問題にされない理由は何なのかをはっきり示すべきです。単に「ガラパゴス的」といった言葉を使いたいだけにも見えます。
慰安婦問題の解決には、まずガラパゴス的な弁明はあきらめ、前述した変化を踏まえることだ。秘密で外交を進め、国民の了解を軽視するという方法は、少なくとも国民感情をここまで巻き込んでしまった問題では通用しない。
具体的には、情報公開、自国民への説明、国際的な共同行動が原則になろう。例えば日本・韓国・中国・米国の首脳が一緒に南京、パールハーバー、広島、ナヌムの家(ソウル郊外にある元慰安婦が共同で暮らす施設)を訪れる。そして、それぞれの生存者の前で、悲劇を繰り返さないことを宣言する。そうした共同行動を提案すれば、各国政府も自国民に説明しやすい。50年代からの日韓間の交渉経緯を公開するのも一案だ。困難ではあるが、新時代への適応は必要だ。
小熊氏の具体的提案というのが、日米中韓の首脳が一緒になって南京・パールハーバー・広島・ナヌムの家で宣言をしましょう、というものです。とてもではありませんが、大の男が言うようなことではありません。
広島で米大統領がなんらかの宣言をするのを米国民が賛成するとは思えません。また、ベトナムにも行ってかつての蛮行を繰り返さない宣言をしよう、と言い出したら韓国の国民は納得しないでしょう。小熊氏の提案はお花畑的です。
一昨日、昨日の外人二人の意見には賛成はできませんでしたが、真摯な人柄であることは伝わりました。しかし、小熊氏の意見はダメです。この人の発言にはまったく価値がありません。
三日間にわたって、「慰安婦問題を考える」の記事を取り上げました。今日で一応終わりにしますが、最後に、編集を担当した杉浦信之記者の「慰安婦問題の本質 直視を」より引用します。
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被害者を「売春婦」などとおとしめることで自国の名誉を守ろうとする一部の論調が、日韓両国のナショナリズムを刺激し、問題をこじらせる原因を作っているからです。
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この件での朝日新聞の論調には概ね反対なのですが、この意見には同意します。
当時売春は合法であり強制的に集めたのでないのだから日本への責任追及は不当である、とのロジックであるなら、応募者を「売春婦」という、現在ではニュートラルでない言葉で罵倒することは避けるべきです。自身の事情を隠して日本を一方的に責める行為に怒りを感じたとしても、その言葉は使うべきではありません。