【テレビ】フランケンシュタインの誘惑 「科学者野口英世」
このシリーズでは初の日本人です。
1876年:福島県の貧しい農家に生まれる
1896年:上京。学歴なしで、医師開業試験に1年で合格。北里柴三郎の伝染病研究所に雇われるが、学歴がないために翻訳係しか任されない
1899年:アメリカの医療視察団が来日。野口はその視察団の一員のフレクスナー博士に自分を売り込む
1900年:フレクスナーの社交辞令を真に受けた野口は単身渡米。フレクスナーは困惑するが、好意からフレクスナー個人に雇ってもらう
1903年:フレクスナーがロックフェラー医学研究所の所長に就任。野口も引き入れる
1911年:野口は梅毒の純粋培養に成功と公表。2カ月後の梅毒の診断方法を発表。1年後に梅毒の進行麻痺の論文を発表。(現在では進行麻痺の論文は正しかったと認められているが、純粋培養と診断方法は誤りだったと分かっている)
さらに狂犬病の研究を始め、細菌が原因だと考える。他の研究者はこの説に疑問を呈するが、野口は発表をフレクスナーに訴える。フレクスナーは後日、再調査をすることを条件に発表を認める。(野口はこの約束を反故にした)
1914年:ロックフェラー医学研究所の正研究員になる。ノーベル賞の候補にもなる。
1915年:日本に凱旋帰国。
1918年:黄熱病に取り掛かる。一カ月後に病原体を発見。(実は似た症状のワイル病の病原体だった模様、。黄熱病はウイルスが原因なので当時の顕微鏡では見えない)
1919年:黄熱病のワクチンを作成。野口ワクチンと名付けられる。同時進行していた蚊の絶滅作戦が功を奏し黄熱病は終息していたので、野口ワクチンの効果は実証されなかった。
1924年:アフリカで黄熱病が発生。野口ワクチンの効果はなかった。
1926年:野口の研究は間違いだったのでは、との話が出始める。野口ワクチンの使用は中止される。
1927年:野口アフリカに渡航したところ、黄熱病にかかってしまう。
1928年:5月21日、野口死去。最期の言葉は「これで終わり。そうであってほしい」
多くのマスコミは野口を偉人とたたえたが、TIME誌にある細菌学者が次のようなコメントを発表した
「彼はワクチンなるものを作り出し誤った安心感を与え、何の利益ももたらさなかった。そして記録に残っていないワクチンを受けた多くの人々の多くの命が失われたのである」
後に黄熱病ワクチンを開発しノーベル賞を受賞したマックス・タイラーは野口の伝記作者に次のように語っている。
「もう安らかに眠らせてあげましょう。あれはまさしく野口の心の問題です」
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研究者なのだから思い違いはあり得ます。データを捏造したとか論文を盗んだとかいうなら非難されてもしかたありませんが、思い込みから発表したもが間違いだったというのは仕方ないかもしれません。
性格に偏りがあったのは事実だとしても、「フランケンシュタイン」呼ばわりはちょっと可哀想かな、と思います。