【朝日新聞】フランス人の自画像
なお、仏国務院というのは、かつては大統領がトップ(院長)でしたが、現在院長職はないそうです。つまり、副院長がトップです。話はそれますが、山形石雄のファンタジー小説「戦う司書」シリーズでバントーラ神立図書館のトップが館長代行だったことを思いしました。
フランスの国務院の役割は、政府提案の法律が憲法や国際条約に照らして適当か否かを答申したり、行政裁判の最高裁として判決を下したりすることです。
例えば昨年11月のパリ同時テロ直後から、政府は(令状なしで捜査できる)非常事態宣言を憲法に明記し、さらにテロ容疑で刑に服した重国籍者のフランス国籍を剥奪(はくだつ)しようと国務院に意見を求めました。私たちは政府に否定的な意見を出しました。非常事態は恒久的になってはならないし、国籍剥奪はテロにつながる直接の危険性があるなど重大なケースでしか検討されるべきものではない、と。
国務院は行政の一部ですが、意見や決定は政府や議会から独立しています。さらに重要なのが世論からも独立していること。国務院の決定文書の冒頭は常に「フランス人民(国民)の名において」と書かれていますが、私たちが言う「人民」とは世論ではない。えてして世論は市民の自由の制限をもたらします。世論の熱狂や激情にくみしてはならない。私たちは歴史的に散々痛手を被ったはずです。
20世紀の、とりわけ欧州の歴史を振り返りましょう。ナチスドイツは、世論が、人民を裏切る帰結を生み、私たちの基本的な価値を根こそぎ傷つけてしまいうることを教えます。かつてルソーは(共同体の意志としての)人民の意志を「一般意志」という概念で説明し、(個人の利害の追求の総和である)全体意志と区別した。
私は憲法が尊重された中でつくられる法は、一般意志の具体的な表現だと考えます。だからこそ、憲法の価値が尊重されないといけない。それによって社会的な亀裂や緊張が取り除かれるのです。
国務院は(憲法の)価値の尊重を通じて、社会に貢献しています。例えば今夏、私たちはイスラム教の女性用の水着「ブルキニ」の海岸での着用の禁止は、違法と判断しました。良心の自由や、海岸を行き来する自由など、人間の根本的な自由への侵害だ、と。
仏憲法に明記されたライシテ(政教分離原則)は国家の中立性と良心の自由の保障を意味します。ブルキニ着用問題では世論の圧倒的多数が禁止を支持し、社会的な対立が起きていました。ですが、ひとたび国務院の判断が明らかになると、多くの人は「決定は正しい」と支持した。社会的な知恵として受け入れられたのです。
(略)
フランス人は認めたがらないかもしれませんが、フランスというのは結構権威主義的な社会なのだなあ、というのが感想です。
世論がつねに正しいわけではないというのはその通りだと思います。「ブルキニ」の着用禁止は違法(違憲?)だという仏国務院の判断も私は正しいと思います。
それはともかく、フランスの少なからぬ人たちが「ブルキニ」を着用禁止にすべき、と考えていたのに、ひとたびお役所が違法だ、と言ったとたんに、『多くの人は「決定は正しい」と支持した』のは、権威主義的社会だといわざるをえません。
エマニュエル・トッド氏は自著(これです)の中で、さかんにフランスを個人が自由な意思を持つ社会と規定し、権威主義的とされるドイツと対比していました。フランス人に限りませんが、往々にして、自画像は自分が見たいように見えるのかもしれません。