【朝日新聞】「1%の極端な発言、存在感」
「ネット右翼」と呼ばれる人たちはどのような政治的意識や属性を持っているのか。2007、14、17年と3回にわたり、ネット利用者を対象に調査しました。愛国や差別、排外主義の言動を過激に行う集団として、無視できない存在となったからです。
調査では、嫌韓・嫌中を訴える、靖国参拝支持など保守的政治志向を持つ、ネットで意見発信するの3項目すべてを満たす人をネット右翼としました。結果、「貧しい若者がネットでうっぷんを晴らしている」イメージとは異なり、特定の年齢層や年収レベルとの関連性は見えませんでした。そしてネット利用者に占めるネット右翼の割合は、一貫して1%ほどに過ぎません。発信しない潜在的シンパ層を含めても6%程度です。
1%が大きな存在感を示すのは、ネットの世界では「誰が発言しているか」が見えにくいからです。会議場に100人が集まり議論すれば「発言した人は少数で、うち1人が極端な発言を繰り返していた」という実態が、誰の目にも明らかです。しかしネット上では、一握りの人が繰り返し書くのを見ることで「多くの人がそう考えている」という錯覚が起こります。
昨年の調査では、「外国人や少数民族の人たちは、平等の名のもとに過剰な要求をしている」という項目を初めて盛り込みました。「そう思う」と答えた人の割合は、一般利用者では9・7%でしたが、ネット右翼層では52・9%。「まあそう思う」も含めると、75・3%が「過剰な要求」と感じていたのです。
ここに表れている意識は、欧米で「現代的レイシズム(人種差別)」として注目されているものです。特定の人種について能力や品性が劣っているとみなすのが古典的レイシズムだとすれば、現代的レイシズムは「人種差別は改善されたのに、少数派は『平等』を掲げて不当に権利を要求している」と主張します。多数派である自分たちの権利が少数派によって踏みにじられている、と訴えるのです。
調査では、客観的な収入レベルより、「自分は恵まれていない」という主観的な意識の方が差別的言動につながる可能性も示唆されました。
LGBTに税金を投入していいのかと訴えた杉田水脈衆院議員の発言も、現代的な性差別の例です。LGBTは差別されていないと強調しつつ、支援する必要があるのかと訴える内容だからです。
現代的差別が危険なのは、人々の正義感に訴える見かけをもつからです。「不当な要求をする連中だ」というまなざしは、容易に「我々の敵だ」という認定に転じます。
1%の言動に注意は必要ですが、新聞やテレビ、雑誌がそれを過剰に意識しすぎないことも大事だと思います。
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「ネット利用者に占めるネット右翼の割合は、一貫して1%ほどに過ぎ」ないから、あまり過剰に意識する必要はない、という指摘です。
1%の人が大きな声で発言すると大きく聞こえてしまうというのはありそうなことです。しかし、これは別に「ネット右翼」だけに起きる現象ではありません。
ネットで自分の飼っているペットの写真を公開して楽しんでいる人は多いですが、彼らだって調査すれば数%にすぎないでしょう。
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>会議場に100人が集まり議論すれば「発言した人は少数で、うち1人が極端な発言を繰り返していた」という実態が、誰の目にも明らかです。
という説明は分かりやすいですが、錯覚を誘発します。
会議場の100人(ここではネットの比喩)は外国との付き合い方を議論するためだけに集まったわけではありません。旅行で撮った写真を見せたり、おいしいお昼ご飯の店を紹介したり、映画の感想を書いたりしている会議場で、その中の一人が”中国が嫌い。韓国が嫌い。”と叫んでいるのです。過小評価すべきとは思えません。
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>発信しない潜在的シンパ層を含めても6%程度です。
これはちょっと分かりかねます。内閣府の世論調査をみると、中国に親近感をもたないのは78.5%。韓国に親近感をもたないのは59.7%です。
辻氏の調査では母集団はネット利用者で、内閣府の調査の母集団は国民と違いはあります。しかし、これではネット利用者は世間一般より中韓に親近感を持っている率の高い集団ということになってしまいます。これは常識的ではありません。
内閣府の調査は設問も公開していて信用度は高いので、辻氏の調査の方に疑問を持ちます。なにをもってシンパ層が6%としたのでしょう?
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>特定の人種について能力や品性が劣っているとみなすのが古典的レイシズムだとすれば、現代的レイシズムは「人種差別は改善されたのに、少数派は『平等』を掲げて不当に権利を要求している」と主張します。多数派である自分たちの権利が少数派によって踏みにじられている、と訴えるのです。
古典的レイシズムと現代的レイシズムを区別するというのはうなづけるものがあります。
しかし、古典的レイシズムの思想が科学的に否定されているのに対して、現代的レイシズムが同じように間違っているわけではありません。
少数派の権利擁護は必要ですが、どこまで優遇すべきかは客観的に決められるものではありません。今の基準では足りないと考える人もいれば、正当な水準とみなす意見もあり、やり過ぎていると主張する人もいます。
どの意見が正しいかは科学的な方法で明らかにすることはできません。あくまで民主的な対話の中で正しい答えを探るべきものです。やり過ぎではないかと懸念する声を「レイシズム」呼ばわりで罵倒していては民主的な話し合いは成立しません。
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辻氏の意見に反論を書いてしまいましたが、調査し分析するという手堅い手法を取っていることには敬意を表したいと思います。